看護の歴史
看護の歴史
1850年代まで―
イギリスにおいてフロレンス・ナイチンゲールが出現するまでは、看護の仕事は社会的に確立しておらず、病人や負傷者への看護は、主に身内によって行われていました。ヨーロッパにおいては、病院という施設は存在しましたが、そこで働く看護師は、教育も受けていない最下層の女性たちによって担われていたのです。日本においては、明治政府によって新しい西洋医学が導入されるまでは、病院という施設は存在しませんでしたから、看護という機能を担う専門家としての職業看護師は存在しなかったのです。
1860年―
ナイチンゲールによって、近代看護が樹立しました。クリミア戦争から帰還したナイチンゲールは、1860年に『看護覚え書』という書物を書いて、その中で看護のあり方や考え方を説きました。そして人類史上初めて、この本の中で「看護とは何か」という定義を明らかにしたのです。また同年、ナイチンゲールはロンドンに看護婦養成所を設立し、ここに本格的な養成教育をスタートさせました。ナイチンゲール方式と呼ばれる教育システムは、日本にも多大な影響を与え、ナイチンゲールの教えは長く我が国の看護の礎となりました。
1915年―
この年に制定された「看護婦規則」によって、日本においては「看護婦」という名称が定着しました。この条文では、看護婦の資格は女性でなければならず、かつその対象は傷病者や褥婦であると定められています。
1948年―
第二次世界大戦後、敗戦国日本にあって、アメリカ指導による新しい看護制度と看護教育制度が発足しました。国家資格をもつ看護職は「保健婦助産婦看護婦法」の制定によって誕生しました。この法律によって、従来別々に行われていた保健婦・助産婦・看護婦教育が一本化され、保健婦・助産婦になるためには看護婦教育の履修が義務付けられたのです。
2001年―
看護職に男性の参入が当然とされる時代に入り、「保健婦助産婦看護婦法」は「保健師助産師看護師法」に変更されました。21世紀にはいると看護教育の大学化は加速され、東京有明医療大学開設の2009年には、その数、170校を数えるまでになりました。今や日本の看護職は、高度の専門職としての道を歩み始めており、少子高齢社会をリードする重要な職業の1つとして位置づけられています。